龍柱撤去


龍柱反対署名提出 2015年11月20日
総合計 29,045筆

翁長雄志沖縄県知事は、那覇市長時代に、中国皇帝のシンボル龍の柱建設事業を、海の玄関の那覇市若狭に、極秘に進めていた‎龍の柱にヒビが入っています!!
3mの高さの首里城の龍柱は1768年の大地震で倒壊
したほど不安定。縦ヒビは広がり長くなっている。
世界に重量450トン高さ15m、12の石の接着による龍の柱の例は無い!危険な建設事業。


那覇市民が
1年8カ月前に投票した那覇市議会議員40名中、死亡、辞任、党も会派が変わり、16名も!





有権者に何の説明も無しの真逆な議会で、多数決で強行採決されました!

城間市長が、臨時市議会を開催し
市長は初日のみ出席。市長欠席。
市民不在政治

2015年5/8に、龍柱補正予算 臨時那覇市議会で可決!
賛成24(新風会、ひやみかち那覇、共産党、社民党、民主党、社大党、無所属)
反対2(無所属の会)
退席11(自民、公明)
新たに追加予算1億円 那覇市民の負担!

那覇市の広報紙『なは市民の友』において約三年間一度も、龍柱が完成後の1月号においても『龍柱建設』について知らせをしていない。
市民告訴詳細HP『翁長市政を糺す』←クリック
LOVEシーサーシール最終バージョン小サイズで










2015年10月28日

シーサーのルーツはチャイナ???何でも「中国から」を疑う


多くの沖縄県民は、当然の事のようにシーサーのルーツをチャイナにしている。
しかし、
世界三大仏教遺跡のひとつが『ボロブドゥール寺院遺跡群』
その入口にある『シンハー』(サンクスリット語でライオン)が、
沖縄の『シーサー』ぽいんですけど?
シンハー ボロブドゥール寺院 ジャワ 


シャイレーンドラ朝※(1)が生み出したジャワ芸術の最高峰である『ボロブドゥール寺院遺跡群』にです!
ボロブドゥール寺院遺跡群石積


ボロブドゥール寺院遺跡群お釈迦様


ボロブドゥール寺院遺跡群お釈迦様が卒塔婆越しに


【世界遺産基本データ】
登録名称:ボロブドゥール寺院遺跡群
Borobudur Temple Compounds
国名:インドネシア共和国
登録年と登録基準:1991年、文化遺産(i)(ii)(vi)
ボロブドゥール寺院遺跡群夕陽



沖縄では陸のシルクロードを経由してチャイナから沖縄に何でも来たような話になっている。
でも、海のシルクロードの線でジャワという考えを抹殺してはならないと思います。
その方が歴史が断然古い事になるしね。

又、日本から日本の真言宗経由でサンクスリット名シーサーが伝わったという考えも有って良いと思いますね。
真言宗の開祖の空海は遣唐使(806年帰国)で唐に出向き、サンスクリット語を日本に初めて伝えた人と言われている。
1368年に、若狭の真言宗の『護国寺』建立、その際に波上宮を整備したという。
沖縄の最古の寺院 創建以来、琉球国王の祈願寺
シルクロード陸と海ジャワも


琉球対外貿易概略図



581年 - 618年 チャイナの隋王朝

600年(推古8年)~618年 日本は遣隋使を派遣

619年 チャイナの唐王朝始まる。

752年?-832年? ジャワのシャイレーンドラ朝

753年 鑑真和尚は遣唐使船で渡日の途中で「阿児奈波(あこなわ)」に漂着したと、
    淡海三船著の「唐大和上東征伝」にある。文献上の沖縄の初見といわれる。

804〜806年 真言宗の開祖の空海が遣唐使 サンスクリット語を日本に伝える。

894年 菅原道真の建議により遣唐使停止

1368年に、若狭の真言宗の『護国寺』建立、その際に波上宮を整備

1368年 チャイナの明王朝が成立

1470年ごろ 首里城の瑞専門に石獅子が対で設置したと記録
首里城瑞泉門のシーサー


首里城欄干のシーサー


1689年 東風平(こちんだ)の冨盛村でたびたび火災があり、
    こまった冨盛村の人たちは、風水師に見せたところ、
   「富盛村を見下ろす八重瀬岳がフィーザン(火山)だ」というので、
   その山にむけて獅子を設置したら火災はおこらなくなったと 記録
東風平の村獅子



『ボロブドゥール寺院遺跡群』その入口にある『シンハー』
シンハー ボロブドゥール寺院 ジャワ 




ちなみに紫禁城の獅子はキモい、沖縄のシーサーとかなり違う。
紫禁城の獅子





※(1)シャイレーンドラ朝:(752年?-832年?)は、8世紀半ばから9世紀前半にかけてジャワ島中部に建てられた王朝。シャイレーンドラはサンスクリット語で「山からの王」「山の王家」[1]という意味。王家は、サンスクリット語と北インド系の文字を使用し、大乗仏教(インドの影響)を信奉した。



首里の「シュリ」は
シュリーヴィジャヤ地図


シュリーヴィジャヤ王国から頂いたのでは?

【シュリーヴィジャヤ王国】Sriwijaya/Srivijaya 
 "シュリーヴィジャヤ"はサンスクリット語であり、"シュリ(Sri)"は"聖なる、光輝の"の意味(英語の"shine"に相当)で、"ヴィジャヤ(vijaya)"は"勝利"を表す(英語の"victory"に相当)。
北宋時代の文豪・欧陽脩が中心となって著された歴史書『新唐書(しんとうじょ)』は"室利佛逝(しつりぶっせい。室利仏逝)"と漢字で書いている。
沖縄の人はあえて「首里」にし「室利」を選択せず。中国語に「首里」は無い。

シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島のパレンバン、西はマレー半島西岸のクダないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。この海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国やインドともさかんに通商をおこなった。

775年のサンスクリット語の碑文には、ヴィシュヌという名の「シャイレーンドラ王家のシュリーヴィジャヤ王」が3寺院を建立したと記されていることから、この時期、シュリーヴィジャヤ王国がシャイレーンドラ王家に支配されるようになったということがうかがわれる。

また、741年の最後の遣使ののち、インドネシアの地域から中国へ遣使をしたのはジャワ島の「訶陵」という勢力であった。この「訶陵」からの中国への遣使は670年にいったん中断し、768年に再開されているところから、シュリーヴィジャヤ王国は8世紀後半より訶陵(シャイレーンドラ朝)の影響下にあったと考えられ、この状態は9世紀後半までつづく。碑文の存在は、ジャワの勢力がスマトラのみならずマレー半島にもおよんでいることを物語る。その後、都は北西方のジャンビにうつり、中国史料では「三仏斉」と称される勢力がマラッカ海峡をのぞむ地域一帯に出現し、10世紀初頭以降、中国へ使節を派遣している。
こののち、ジャワ島のクディリ朝のダルマヴァンシャ王は、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止しようと、992年からマレー、スマトラ各地に侵攻した。しかし、1016年に地方領主の1人であったウラウリ王の反乱によって、ダルマヴァンシャが殺害された。その背後に、シュリーヴィジャヤの力が働いていたのではという説がある。
1025年に南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けて衰退した。スマトラ島はジャワのシンガサリ朝、続いてマジャパヒト王国からの征服にさらされた。同時期、アラブやインドの商人との接触を通じて広まったイスラム教徒がスマトラ島の地方にアチェ王国を建国した。13世紀の後半までに、サムドラ王国の君主はイスラム教徒に改宗した。同じ頃シュリーヴィジャヤ王国はクメール王朝の、後にスコータイ王朝の属国になった。
1414年までにシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラ(英語版)がイスラム教に改宗し、マレー半島のマラッカでスルタン制が始まった。マラッカ王国は1511年8月24日にポルトガルによって征服された。
シュリーヴィジャヤ・アンコールワット・ポロブドゥール地図



インドネシアの歴史
History of Indonesia.png
初期王国
シュリーヴィジャヤ王国 (3世紀–14世紀)
クタイ王国 (4世紀末-5世紀初め頃)
タルマヌガラ王国 (358-723)
シャイレーンドラ朝 (8世紀–9世紀)
スンダ王国(英語版) (669-1579)
古マタラム王国 (752–1045)
クディリ王国 (1045–1221)
シンガサリ王国 (1222–1292)
サムドラ・パサイ王国 (1267-1521)
マジャパヒト王国 (1293–1500)
イスラーム王朝の勃興
マラッカ王国 (1400–1511)
ドゥマク王国 (1475–1518)
アチェ王国 (1496–1903)
バンテン王国 (1526–1813)
パジャン王国(英語版) (1568年-1586)
マタラム王国 (1500年代-1700年代)
ヨーロッパ植民地主義
オランダ東インド会社 (1602–1800)
オランダ領東インド (1800–1942)
インドネシアの形成
日本占領下 (1942–1945)
独立戦争 (1945–1950)
インドネシアの独立
9月30日事件 (1965–1966)


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Posted by 龍柱阻止 at 16:02│Comments(0)沖縄の歴史検証
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