龍柱撤去


龍柱反対署名提出 2015年11月20日
総合計 29,045筆

翁長雄志沖縄県知事は、那覇市長時代に、中国皇帝のシンボル龍の柱建設事業を、海の玄関の那覇市若狭に、極秘に進めていた‎龍の柱にヒビが入っています!!
3mの高さの首里城の龍柱は1768年の大地震で倒壊
したほど不安定。縦ヒビは広がり長くなっている。
世界に重量450トン高さ15m、12の石の接着による龍の柱の例は無い!危険な建設事業。


那覇市民が
1年8カ月前に投票した那覇市議会議員40名中、死亡、辞任、党も会派が変わり、16名も!





有権者に何の説明も無しの真逆な議会で、多数決で強行採決されました!

城間市長が、臨時市議会を開催し
市長は初日のみ出席。市長欠席。
市民不在政治

2015年5/8に、龍柱補正予算 臨時那覇市議会で可決!
賛成24(新風会、ひやみかち那覇、共産党、社民党、民主党、社大党、無所属)
反対2(無所属の会)
退席11(自民、公明)
新たに追加予算1億円 那覇市民の負担!

那覇市の広報紙『なは市民の友』において約三年間一度も、龍柱が完成後の1月号においても『龍柱建設』について知らせをしていない。
市民告訴詳細HP『翁長市政を糺す』←クリック
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Posted by TI-DA at

2016年11月15日

琉球王朝絵巻行列という名の捏造歴史洗脳 中国のウハウハを阻止!!


国際通りを屈辱
『琉球王朝絵巻行列・

冊封使行列
』!!!

琉球王朝絵巻行列・冊封使


写真は『冊封使行列』が過ぎた後ですが
サイレントデモ成功!
『冊封粉砕』『打倒習近平』の旗を数人で立て
沖縄県民と中国の侵略被害者のウイグル人は、

捏造歴史洗脳に騙されていない事を意思表示
「冊封粉砕」ノボリ旗in琉球王朝絵巻行列




警備にあたっている警察の方に口頭で
軽く注意され素直に旗を降ろしました。

みんな沖縄と日本を守りたい一心でした!
琉球王朝絵巻行列にノボリ旗を降ろす




サーチナ※(1)が、既に、2012年に
首里城祭開催にかこつけて歴史捏造報道
「琉球王国は昔、中国の冊封国
明治維新の末期に
日本の武力に併合された」???!!!


サーチナが首里城祭開催にかこつけて、沖縄は日本が武力で併合とウソ報道


↑↑ ↑↑ ↑↑
薩摩藩が琉球王国に軍事行動(琉球征伐)をしたのは、
1609年です!!!
明治維新の末期に、日本が琉球王国に武力行使した事実はない。
明治維新の末期に日本が琉球王国に行ったのは、
1871年の廃藩置県です!!!



首里城祭行列詳細図

首里城祭行列詳細図




やはり屈辱の若狭の龍柱に出向き
冊封粉砕旗 日本国旗 東トルキスタン国旗を
トゥールムハメトさん、
クットゥルック東実さん、
金城テルさん、
シーサー平和会議のレギュラーメンバーで掲げ
中国の侵略を許さない意思表示をしました!
龍柱前東トルキスタン国旗



短い時間でしたがトゥールさん達は松山公園の『孔子廟』にも出向き、
あまりの文化侵略の凄まじさにかなりショックを受けていました。
金城テルさんから、直接トゥールさんに、金城さんが告訴している『孔子廟』の判決が、今月11月29日に出る事を伝えました。

孔子廟



中国式の額は台湾人の蔡雪泥女史による贈り物。
しかし、蔡雪泥女史の額は琉球新報にも、
浦添のてだこホールにも設置されている。
トゥールさん曰く、完璧な文化侵略の工作員ですよ、と。

孔子廟の額、蔡雪泥




回のトゥールさんとクットゥルックさんの来沖は、
私達をより中国の侵略の危機を気づかせてもらうものでした。
トゥールさんは「想像よりも凄まじい文化侵略でした。」
クットゥルックさんは
「もう自治区になっています」と感想!!


41:00〜43:30 #金城テル 先生が沖縄の声で、#冊封儀式 問題をウィグルのトゥールさん達との会話で沖縄は既に自治区になっているではないか?」と話された事にショックを受けたと話しています。
【沖縄の声】[桜H28/11/3] youtu.be/2CEDr4xO6eY



※(1)サーチナ:同社の主要ニュースソースは中国国営通信社の中国新聞社であり、独自の取材網を持つわけではないので、中国政府の見解が記事に反映される。中国経済、中国株情報の配信をはじめ、日本最大の中国情報サイト  

2016年07月02日

曲亭馬琴の出世作『椿説弓張月』は、強弓の源為朝と琉球王朝開闢の秘史を描いた歴史小説


藤岡寛次 教授(明星大学戦後教育研究センター)による講義。

沖縄のルーツは日本!
大日本人皇五十六代、清和天皇の孫、
六孫王より七世の後胤、
六条判官為義の八男(琉球王国の始祖)



大弓を引く源為朝。読本『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』より。葛飾北斎 挿画。
大弓を引く源為朝。読本『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』より。葛飾北斎 挿画




全く同じ!琉球王家の家紋と宇佐八幡宮の神紋
琉球王家の家紋と宇佐八幡宮の神紋



『保元物語』では13歳の時に九州に追われ大暴れし、わずか3年で九州を平らげたとい­う、身長七尺(約210cm)三尺五寸の太刀(約106cm)と八尺五寸(約255cm )の弓を操ったといわれる鎮西八郎こと『源為朝』の琉球渡り伝説と、
その裏付けとなる10世紀から12世紀頃に九州から沖縄に農耕をする人々が移住したとする、近年の有力な説­との関係。

※源為朝の父である源為義は源義親の子とされるが、源為義の父は八幡太郎こと源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。

※源為朝を祖とする『舜天王朝』は3代目の義本王の時に一旦滅んだが、
後に、第一尚氏が倒れたあと新王統を開いた、
第二尚氏の始祖・尚円王の父・尚稷は『中山世譜』など正史によれば 、
舜天王統の第三代王・義本の末裔であるとの説が記されている。
尚円王統は琉球処分まで19代409年続いた。


『保元物語』巻之一
「其比、六条判官為義と申は、六孫王より五代の後胤、伊与入道頼義が孫、八幡太郎義家が四男也。」

「為朝久しく鎮西に居住仕(っ)て、九国の者どもしたがへ候に付て、大小の合戦数をしらず。中にも折角の合戦廿余ヶ度なり。」

『保元物語』巻之二
「清和天皇より為朝までは九代也。六孫より七代、八幡殿の孫、六条の判官為義が八男、鎮西八郎為朝ぞ。景綱ならば引しりぞけ。」とぞの給ひける。」

『保元物語』巻之三 
「為朝のたまひけるは、「我清和天皇の後胤として、八幡太郎の孫なり。いかでか先祖をうしなふべき。是こそ公家より給(っ)たる領なれ。」とて、大嶋を管領するのみならず、すべて五嶋をうちしたがへたり。」

「此為朝は、十三にて筑紫へ下り、九国を三年にうちしたがへて、六年おさめて十八歳にて都へのぼり、保元の合戦に名をあらはし、廿九歳にて鬼が嶋へわたり、鬼神をと(っ)てやつことし、一国の者おぢおそるといへども、勅勘の身なれば、つゐに本意をとげず、卅三にして自害して、名を一天にひろめけり。いにしへよりいまにいたるまで、此為朝ほ­どの血気の勇者なしとぞ諸人申ける。」

『中山世鑑』
『中山世鑑』




「瞬天尊敦と申奉るは、大日本人皇五十六代、清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤、六­条判官為義の八男、鎮西八郎為朝公の男子也」

『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」)

なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。
高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

自決の半年前に、戯曲を書き上げ歌舞伎で上演。
【動画】三島由紀夫と英雄・源為朝 『椿説弓張月』


沖縄県浦添市前田の『為朝岩』為朝は弓の名人として知られている。 為朝がこの岩に立ち、矢を放つとその矢は、牧港まで届いたと云う。




為朝の琉球渡来伝説は奄美諸島にも伝えられています。
 下の写真は与論島にあるアジニッチェー(按司根津栄)神社。
 アジニッチェーは琉球王から喜界島から与論島までの諸島の統治を任された人物です。実在の人物ですが、色々と伝説も多い。その1つが彼の出生です。彼は為朝が琉球へ渡る途中に与論島に3ヶ月間滞在した折、島の娘との間に設けた子ということになっているのです。
与論島にあるアジニッチェー(按司根津栄)神社



下は「弓張月」の一場面の錦絵。大島を抜け出した為朝の軍勢が嵐に遭い、船が難破しかけた時、祟徳院の配下の烏天狗が現れて為朝を救い、海に投げ出された為朝の息子・舜天丸は、海底から現れた大怪魚に助けられるという場面。幕末の浮世絵師・歌川国芳画。
「弓張月」の一場面の錦絵。大島を抜け出した為朝の軍勢が嵐に遭い、船が難破しかけた時、祟徳院の配下の烏天狗が現れて為朝を救い、海に投げ出された為朝の息子・舜天丸は、海底から現れた大怪魚に助けられる 歌川国芳画。




日本人のルーツDNA解析  中国・韓国にはない縄文人のDNA
http://www.youtube.com/watch?v=V1KLC6...
縄文系日本人特有のD2a1bが源氏=天皇の後裔のY染色体のDNAであることは韓国人も認めている事実
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/de...
【サヨク悲報】沖縄人のDNAは日本人|竹田恒泰チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=XlR0w...
沖縄は悲劇の島なのか?徹底検証SP 2015年7月5日
http://www.youtube.com/watch?v=VgMhEA...
  

Posted by 龍柱阻止 at 01:30Comments(0)沖縄の歴史検証

2016年03月24日

沖縄戦の真実から現知事・翁長氏の危険を知る:県民20万人を救った官選知事と警察部長は県外からの赴任



<■5.県庁トップ二人の疎開妨害>まで読みすすめると、
現在の緊迫した『中国の侵略の脅威』に対して、
71年前の『泉 守紀知事』と同じように、
翁長現知事が、140万人の県民の命を危険に晒す言動を
行なっていると痛感し、寒気がすると思う。


二人の島守


■1.20万県民を救った二人の島守(しまもり)

 大東亜戦争末期、戦場となった沖縄で、一人でも多くの県民を助けようと苦闘し、
 県民から島守(しまもり)として讃えられた二人の官僚がいた。

 沖縄県知事・島田叡(あきら)と警察部長・荒井退造(たいぞう)である。

 二人は20万人の県民を県外、および県内北部の安全地域に疎開させた。

 当時の60万県民の三人に一人はこの疎開によって、命を救われたと言える。

 しかも、沖縄戦の直前、本土に逃げ帰った同僚部長もいるなかで、
 
 荒井は警察部長として県民疎開の陣頭指揮をとり、
 
 島田に至っては米軍攻撃のわずか2カ月前に、死を覚悟して県知事として沖縄に乗り込んだのである。
 
 今回は、この二人の生き様を追ってみたい。


『たじろがず沖縄に殉じた荒井退造』表紙
『たじろがず沖縄に殉じた荒井退造』表紙


■2.県民疎開の緊急閣議決定

 荒井が沖縄県警察部長として着任したのは、昭和18(1943)年7月、42歳の時だった。
 国内や満洲の各地で主に警察畑を歩んできた荒井は、南国の明るい風物に触れて、この赴任を心から喜んだ。

 しかし、戦況は南のガダルカナル島敗退、
 北のアリューシャン列島アッツ島守備隊の玉砕などが続いており、
 荒井は任地の沖縄について、「国土防衛の前進基地となっているから、まづ防空に全力を尽くしたい」と覚悟を語った。

 1年後の昭和19(1944)年7月7日夜、
 政府は沖縄県民の60歳以上と15歳未満の老幼婦女子を本土と台湾へ集団疎開させることを閣議決定した。
 この日、サイパンが陥落し、守備隊約3万1千の玉砕とともに、在留邦人1万2千も運命を共にした事から、
 沖縄でも同様の事態になることを恐れたのだった。

 県民疎開を発案したのは参謀本部だった。
 戦場に多くの住民がいては、被害を大きくするだけでなく、

 住民を守るために軍は本来の戦闘力を大きく削がれてしまう。

 戦場となる地域からは極力非戦闘員を避難させることが、軍事的常識であった。

 また当時、沖縄は年間消費米38万石(5万7千トン)の3分の2を台湾や他県からの移入に頼っていたので、
 
 沖縄での戦闘が始まり、海上輸送が途絶すると、県民の食糧補給が困難になる、との事情もあった。


 しかし、県民の方は迫りつつある戦火を感じながらも、まだ島内は平和であり、
 
 しかも年寄り、女子供だけが身寄りもいない土地に行く不安の方が大きかったので、疎開気分は一向に盛り上がらなかった。

 県民疎開の責任者を命ぜられた荒井は、全署に対して、
 講演会や家庭訪問を通じて、疎開の必要性を説け、と指示した。


■3.「お父さーん、さようなら!」

 さらに荒井は、警察官や県庁職員の家族を率先して疎開させることで突破口を開こうとした。
 激戦が始まったら、後顧の憂い無く任務の遂行に挺身するためには、
 まず家族を安全な所に疎開させなければならない、という考えもあった。

 ようやく7月21日、疎開第一船「天草丸」が警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出発した。
 
 警察部輸送課長・隈崎俊武警視(当時42歳)の妻と5男2女もその中にいた。
 
 当時、6歳で国民学校一年生だった4男・勝也は、当時の状況を鮮明に覚えている。[1,p73]
__________
 追い立てられるような、慌ただしい旅立ちだったと子供心に記憶しています。
 その日、一張羅を着せられ、まだ新しい帽子をかぶり、ランドセルを背負い、新品の革靴姿でした。

 母は乳飲み子と3歳の妹をつれ、兄や姉は持てるだけの荷物を持って、那覇港に行きました。
 埠頭(ふとう)は乗船する家族連れ 見送りの人たちで一杯で、父も見送りに来ていました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 タラップから乗船し、船が動き出すと、
 「お父さーん、さようなら!」「おきなわ、さようならー」との大声が飛び交い、皆ちぎれんばかりに手を振った。
 幼い子供たちにとって、これが父親との最後の別れになるかもしれない、という事は分からなかったろう。


■4.「対馬丸」の悲劇

 敵の潜水艦を避けるために、船は動いては止まりの繰り返しで、鹿児島に着くまでに2週間もかかった。

 ある日、黒く長い物が水面すれすれに、ジャブジャブと泡を立てながら、船体をかすめていった。
 「わぁーっ、大きな魚だ」とはしゃぐ勝也少年を、同乗していた叔父さんが「じっとしなさいっ」と叱りつけ、ぎゅっと体をつかまえた。
 それは敵潜水艦の魚雷で、天草丸は間一髪で助かったのだった。

 そばにいた船員たちも真っ青になっていたが、この件は、乗客を心配させまいと、秘密にされた。

 しかし、そのすぐ後に心配は現実となる。8月5日に学童825人、一般疎開者836人を乗せた「対馬丸」は、
 鹿児島の南西260キロの海上で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、助かったのは177人だけだった。
 非戦闘員を運ぶ船舶への魚雷攻撃は、戦争犯罪である。

 名護署に勤務していた国吉真成(しんせい)警部補の妻と6人の子も犠牲者の中にいた。
 沈没は軍事機密として公表されなかったので、家族を失った国吉警部補は悲しみを包み隠して、疎開作業を進めなければならなかった。

 荒井もつらい思いをしながらも、一人でも多くの県民を救うためには、この悲劇を乗り越えて県外疎開を実施しなければならなかった。
 結局、昭和19(1944)年7月から翌年3月までに出航した延べ187隻の疎開船が、約7万3千人を運んだが、
 遭難したのは対馬丸だけだった。


■5.県庁トップ二人の疎開妨害

事実上、沖縄戦から逃亡した卑怯で姑息な泉 守紀 第26代沖縄県知事
泉 守紀 第26代沖縄県知事


 荒井の職務をさらに難しくしたのは、泉守紀(いずみしゅき)県知事の疎開反対だった。
 
 泉知事は新聞記者や議員に疎開反対の言辞を漏らし、
 それがために「引き揚げは知事の意に反して、警察部長が独断で進めている」との県幹部の中で噂が飛び交い、
 荒井は県会に呼び出されて、議員の追求まで受けた。

 泉知事は反対の理由について「年寄りや女、子供を言葉や風習の違う本土に行かせるのは可愛そうだ」などと漏らしていたが、
 当時の状況では説得力はなかった。

 そんなところから、
 「泉知事は戦火が迫る沖縄から他府県に逃げ出したいのだが、疎開で騒然とした状況では動きにくいので反対しているのだ」
 と囁かれるようになった。

 荒井が必死に県外疎開を進めている最中にも、泉知事は1カ月近くも東京出張をした。
 県民の中に「泉知事は他県への転任運動をしている」という噂が渦巻いているのを知ると、日記にこう書いている。
 「排斥ならいくらでもやれ。喜んでその排斥を受けるぞ。愚民どもめ。まったく沖縄はいやになった。」

 副知事格の伊場信一 内政部長も、また荒井の足を引っ張った。
 日本放送協会(NHK)沖縄放送局からの県民向け放送の中で「敵は絶対に沖縄に上陸しないことを確信します」と放言した。
 この放送は県民の間で大きな反響を呼び、せっかく盛り上がりつつあった疎開気運に冷や水を浴びせかけた。

 実は、この内政部長も一刻も早く沖縄を逃れたいと思っており、いましばらく沖縄の情勢が平穏でなければ、転勤運動がやりにくいと考えていたのだ。そのために、荒井の疎開促進活動をぶち壊したかったのである。

 後にこの内政部長は、東京に出張中に、無断で大分県の山奥の電話もない湯治場に「胃病の治療」と称して雲隠れするという行動をとった。

 県知事、内政部長という県庁トップ二人の妨害に直面しながらも、荒井は一人でも多くの県民を疎開させるために奮闘を続けた。


■6.最初の大空襲

 10月10日、米軍機による最初の大空襲が行われ、那覇市内の各所で火炎と黒煙が吹き上げた。知事は寝間着姿のまま、官舎の防空壕に飛び込み、市内の状況把握もしない。内政部長は上述の「出張中」で不在ということで、荒井一人が県庁で住民の避難誘導や消火作業の指揮をとった。

 空襲の合間には、車で市内を回り、各所に派遣した警備中隊や警防団の様子を視察した。途中で敵機に目をつけられ、機銃掃射を受けたがなんとか振り切った。警察部長の命がけの視察を受けた警備中隊や警防団は、意気に感じて消火作業に努めたが、渦になって町を駆け抜ける猛火の前には、どうすることもできなかった。

 県庁舎は焼け残ったが、知事は12キロも離れた普天間の地方事務所に逃れ、そのため県職員も重い書類や荷物を担いで、移動しなければならなくなった。

 県民の間から「この重大な戦局のさなかに長たるものが逃げるとは何だ」と非難が巻き起こった。知事は数日後に県庁に姿を現したが、空襲警報が出るとまた普天間に逃げ帰るという有様で、知事の権威はガタ落ちとなった。

 一方、荒井は「おれは普天間には行かんぞ」と、県庁で頑張っていた。官舎は全焼したため、近くの自然壕で寝泊まりして、県庁に通った。

 沖縄に陣取る第32軍ももはや県知事や内政部長を相手にせず、すべて荒井を相手にするようになった。横穴壕造などの防空体制の強化、食料の増産、軍需供出と労務への対応、輸送力の確保など、すべてが荒井の肩にかかってきた。

 その一方で、戦災で住む家は焼かれ、衣食は窮乏を極めたため、疎開を希望する県民が県庁に殺到した。空襲によって、荒井が今まで進めてきた疎開の正しさが、誰の目にも明らかになったのである。


■7.「島田君に当たってみてくれ」

 第32軍司令部は、敵の上陸に備えて、さらに老人、児童、婦女子を県北部に疎開させる計画を立てた。北部は山岳森林地帯で、戦場となる可能性は少ないからである。

 しかし、I知事は「山岳地帯で、耕地もない北部へ県民を追いやれば、戦争が始まる前に飢餓状態が起きる」と反対した。と言って、県民保護のための対案を示すわけではない。

 第32軍司令部はサイパン島で起きた在留邦人玉砕の悲劇を何とか避けたいとの思いで立てた計画だけに、「県民を救おうという案に対して、県知事が何をほざくか」と怒り心頭に発した。

 そこで沖縄に戒厳令を敷き、行政権を軍司令官が掌握して、知事をその指揮下に入れてしまう、という強攻策を検討し始めた。そんな事をされては面子が立たないと、内務省は慌ててI知事の更迭を決断した。

 しかし、問題は後任探しだった。戦場になることが目に見えている沖縄である。3、4人の候補者を挙げたが、どれも知事にはなりたいが、沖縄ならご免という者ばかりだった。

 そこに第32軍司令官の牛島中将から「島田君に当たってみてくれ」と推薦があった。島田叡(43歳)は当時、大阪府の内政部長だったが、かつて上海総領事館の警察部長だった時に、牛島中将と親交を結んでいた間柄だった。


『10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田 叡』表紙
10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田 叡


■8.「もちろん、引き受けてきたわ」

 その打診が来たのは、昭和20(1945)年1月11日の朝だった。妻子3人と朝食のテーブルを囲んでいるところに、隣の知事官舎に住む池田清知事から「話があるから、ちょっと来てほしい」と電話があった。

 やや長い時間が経ってから、島田は戻ってきて、持ち前の神戸訛りで言った。「沖縄県知事の内命やった」

 妻の美喜子は全身の血が逆流するような思いに駆られ、「それで、どうお答えになったのですか?」と聞いた。島田は落ち着き払って答えた。「もちろん、引き受けてきたわ」

 美喜子は驚いて、我を忘れて叫ぶように言った。「沖縄はもうすぐ戦争になるのでしょう。そんな所へなぜ、あなたが行かなければならないのですか。」

 島田は答えた。[1,p140]
__________
 だれかが、どうしてもいかなならんとなれば、言われたおれが断るわけにはいかんやないか。おれが断ったらだれかが行かなならん。おれは行くのは嫌やから、だれか行けとは言えん。・・・

 これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。おれが断れるからというので断ったら、おれもう卑怯者として外も歩けんようになる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■9.命もいらず、名もいらず

 島田の沖縄県知事任命は、翌12日、閣議決定され、即日発令された。

 島田知事が沖縄に着任したのは1月31日。妻子とは大阪駅で別れたが、これが見納めになった。
 引っ提げたトランク2つの中には、愛読書の『西郷南洲遺訓』『葉隠れ』とともに、
 日本刀、ピストル2丁、そして自決用の青酸カリが入っていた。
 夫人には「死ぬと決まったわけやない」と言っていたが、覚悟の旅立ちだった。

__________
 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。
 此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 とは、西郷隆盛の言であるが、
 敢然と沖縄に乗り込んだ島田についても、そのまま当てはまる。
 米軍の上陸は、わずか2カ月先に迫っていた。

(文責:伊勢雅臣)■ 国際派日本人養成講座 ■人物探訪http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h22/jog651.htmlより


QABの報道 2010年2月1日 18時51分
<65年前のきょうは1945年2月1日>
沖縄新報の島田知事の記事


アメリカ軍の上陸が迫る中、決死の覚悟で沖縄の地を踏んだ若き県知事です。
65年前のきょう、新聞紙面を大きく飾ったのが新しい県知事島田叡の着任を伝える記事でした。前の年の空襲で壊滅的な被害を受けた県都・那覇。県の職員たちにも不安が広がる中、訓示した43歳の若き県知事は、凛々しく、誠実で穏やかな人柄だったと言います。
板良敷さん「一回も小言を言われたこともないし、怒鳴られたこともない。常に優しく接してもらった。おい、とか、君とか、ということは言わない。名前を覚えたら名前を呼んでおられました。やはり、この人たちと運命を共にするというきもちがあったんでしょう」
戦況が厳しくなり、県外への疎開が困難になる中、島田は住民たちを北部に避難させようと奔走。食料を確保するため危険を顧みず、自ら台湾に渡って交渉しました。彼が沖縄で過ごしたのはわずか半年でしたが、その姿は多くの人の胸に焼きついています。  

Posted by 龍柱阻止 at 09:48Comments(0)沖縄の歴史検証

2016年01月07日

昭和天皇が皇太子の時にお渡りになった由緒ある『御成橋』に龍柱?!


27年前の本日、昭和64年 1月7日 午前6時33分
昭和天皇が崩御されました。宝算87才

昭和天皇は、日本の第124代天皇。 諱は裕仁。幼少時の称号は迪宮、お印は若竹。

崩御の2年前、62年に念願の沖縄訪問を御予定されたが、開腹手術で御断念

思わざる 病となりぬ 沖縄を たずねて 果さむ つとめありしを 

昭和天皇のこの御製(天皇陛下が詠まれる和歌のことを御製といいます)の碑が那覇市若狭1丁目の『波上宮』に設置されています。
昭和天皇の和歌「思わざる 病となりぬ 沖縄を」



 米国施政下のため、全国巡幸は47都道府県で唯一沖縄に訪問できず、
 その後もついに訪れることができなかった沖縄への強い思いもうかがえる。
【動画】昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム

右手に原爆ドーム、左に広島護国神社の大鳥居が原爆後もすくっと立っている事が見えます。
広島原爆ドームと鳥居と昭和天皇



 「訪米前に自分が沖縄に行くことができないかとお尋ねになった旨が伝えられる」。
昭和天皇御訪米



 昭和50年4月16日、上京した西銘淳治沖縄県知事は、天皇陛下に62年の沖縄国体へのご臨席をお願いすると、天皇陛下は沖縄戦で祖国の御楯となった英霊と遺族を労りたいとのお気持ちから、沖縄行幸への強い意思を表明された。

 西銘知事を引見された時、天皇陛下は「沖縄といえばすぐ漢那を思い出す。漢那のお陰で大正10年に沖縄に行くことが出来た」と発言されている。
漢那が皇太子を先導した光景は、沖縄の人々に日本国民としての自覚を与えただけでなく、若き皇太子の御心にも沖縄への強い愛情を植え付けたのである。

 いわゆる、22年に、昭和天皇陛下が、GHQ側に沖縄の長期占領を望んでいることが伝えられたと記載されている「シーボルト文書」についても『天皇実録』で触れているが、
 天皇が沖縄への訪問希望を何度も述べた事実の記述もある。

 皇太子(今上天皇)に沖縄訪問の名代を託し、「健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したい」と決意を記したお言葉全文も、実録に掲載された。


さて、昭和天皇、最期の御枕元にあったといわれる一冊の本がある。
著者は沖縄県出身の恵隆之介 氏です。
『天皇の艦長ー沖縄出身提督漢那憲和の生涯』

天皇の艦長の本


大正十年、皇太子であられた昭和天皇が、皇室史上初めて欧州をお訪ねになった。御召艦「香取」艦長としてその大役を果たしたのは、沖縄出身提督、漢那憲和。
昭和天皇と漢那憲和、香取船上にて



大正10(1921)年
3月6日午前9時10分、『香取』『鹿島』が沖縄島東南部の中城湾(なかぐすわん)に進入し、5海里沖合に投錨した。両艦艦首の菊の御紋が朝日にさんぜんと照り輝いていた。

 沖縄史上初の御召艦の入港、しかも艦長が地元出身とあって、県民はこの歴史的出来事を一目見ようと黒山の人だかりだった。各所で「万歳」の合唱が起こった。皇太子殿下は、小艇で上陸された。当時の様子は、次のように記録されている。

__________
 沿道の民衆は道路が狭いので御顔を咫尺(しせき、至近)に拝することができた。中には手を合わせて拝むものもあった。厳めしい警戒も目立った歓迎の装飾もなかったけれど恭謙な国民は嘉悦の色を輝かして厳粛にお迎え申し上げた。[1,p114]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そこから殿下は漢那の先導で、列車にて那覇に向かわれた。那覇駅には、県会・町村会議員、在郷軍人、中学校生徒らが出迎えた。その中には母オトもいた。皆、お若い殿下と漢那大佐の勇姿に感涙していた。

 そこから人力車で、県庁に向かった。数万の県民が沿道で出迎え、殿下のご一行はその中を縫うように走った、と伝えられている。ほとんどの県民は感涙していた。

 日清戦争の頃まで日本派と清国派が乱闘までした沖縄でも、地元出身の御召艦艦長・漢那憲和大佐が皇太子を先導するという光景を目の当たりにして、自分たちも等しく皇室を戴き、近代日本を支える日本国民である、という自覚と誇りを抱いた事だろう。

このご来沖時に、建設されたばかりの橋を通られました。その橋を皇太子殿下の御成りになった橋として『御成橋』と名付けられ、皇太子の御行幸の沖縄県民の想い出を残す大切な名所となっております。

現在の『御成橋』の写真
御成橋


県庁前駅と御成橋
県庁前駅と御成橋


御成橋欄干
御成橋欄干


大戦後、米国占領下において、『御成橋』を通るアイゼンハワー、すごい警備
御成橋アイゼンハワー来沖警備


ゆいレールの駅名は久茂地側に沿った橋名を順当に『美栄橋』→『御成橋』→『旭橋』と名付けるべきでですが、
距離が離れた『県庁前』と駅名に決めています。
実際に駅名募集の際に『御成橋駅』を応募された方がいらっしゃいます。



昭和天皇終戦時の御製
「爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」
ヒロシマとナガサキの市民への無差別な原爆投下は国際法違反であり、被ばくの後遺症を残す人類史上初の原子爆弾投下です。
国民と国の弥栄を祈り続けている天皇陛下にとって、身を切られるよりも苦しく悲しい事だったと思います。

昭和天皇陛下が、全国巡幸で成し遂げられなかった沖縄への思いを、
この那覇市久茂地の『御成橋』という名で偲び続けるのが、
全国でも皇室崇敬の念の高い沖縄県民願いだと思います。
【動画】昭和天皇と平和への願い



やはり、那覇市に『明治橋』という歴史ある橋があります。
初代明治橋は近代国家の始まり『明治時代』に建てられた記念の命名です。
しかし、県民が気づかない内に、勝手に龍柱が乗せられた橋になっています。

昔の明治橋
昔の明治橋


現在の明治橋
明治橋の龍柱




小さい新聞社にこの『御成橋』への妨害工作を心配した投稿がされています。

大山信吾氏の投稿・御成橋龍柱問題


サムネイル大山信吾記事

昭和天皇が皇太子の時にお渡りになった由緒ある『御成橋』に絶対に龍柱を建てさせない!
日本国民としての誇りと勇気で粉砕しましょう!
  

2015年10月31日

【動画】県政クラブにて記者会見 冊封儀式粉砕デモと明治節イベントについて


【動画】本日<公正と信義を取り戻す­市民の会>は県政クラブにて記者会見
<第2回10.31冊封儀式粉砕デモ>について


明日、2015年10月31日10時集合、守礼の門下を出発点に冊封儀式粉砕デモを敢行
ぜひ、誇りある県民の方ご参加を!


中華思想こそ冊封儀式粉砕デモチラシ
  

2015年10月29日

中国に土下座するのは王府の文化 守礼門も龍柱も首里城にしかない 今帰仁城や中城城にはない 龍柱を建てるいわれはない




守礼門の「守礼」はチャイナへの守礼、つまりチャイナに冊封されている服従の象徴。
前はチャイナのいない時は扁額を「首里」としていた。
首里城再建後に紅く塗り直された守礼門


左写真が冊封の象徴『迎恩門』      右写真が『独立門』迎恩門独立門
韓国はチャイナとの冊封の象徴の「迎恩門」を、日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制から李氏朝鮮は離脱した。 こうして大韓帝国が成立、独立協会は『迎恩門』を取り壊し、1897年に独立の記念として新たに独立門を同じ場所に建てています。


2014年6月3日~8日 西村貞雄主催「復元のあゆみー琉球王朝造形文化の独自性を求めてー」にて、
西村貞男琉大教授が若狭の龍柱デザインを監修
那覇市議会の建設委員会で、龍柱の必然性をとうとうと説明していました。彫刻家であって、歴史研究の教授ではないのに!!
写真左から仲間好彦氏、西村貞雄氏、金城棟永氏、翁長自修氏、金城規克氏
西村貞雄2014年6月3日~8日西村貞雄主催「琉球王朝造形文化の独自性



若狭に建設中の巨大龍柱のレプリカを前にした長年基地反対運動家の両氏、写真左が画家の新垣安雄氏、詩人の高良勉氏。
龍柱レプリカとサヨク芸術家、サヨク政治家


 ↑沖縄の基地反対サヨク識者の偏った言論をそのまま話しているのが無知な翁長現知事です。
龍柱について、「琉球王朝」は隠したが、「沖縄独自の文化」と答弁。

翁長知事は、中国への服従の象徴という言葉と、沖縄独自の文化を、対比的に使用、誤りだ
中国に土下座するのは王府の文化
守礼門も龍柱も首里城にしかない
今帰仁城や中城城にはない
現代の我々が第二、第三の守礼門や龍柱を建てるいわれはない

◎なんだかスッキリするブログを見つけました
【琉球王国~その真実の歴史】 
____高良倉吉&上里隆史の歴史修正主義に反対します!琉球王府の悪行を語り継ぎます!____

<龍柱は沖縄の文化か?>10月7日
<翁長知事「龍柱は沖縄の文化」 中国の象徴否定
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/46503649.html
沖縄県の翁長雄志知事は5日の県議会9月定例会の一般質問で、那覇市が市若狭に建設を進める龍柱について、
「首里城にも龍がある。もし中国のもの(という象徴)ならば、あの時代から沖縄は中国のものだと言われても
しょうがないという話になる。アジアの国々とつき合う中から生まれた沖縄独自の文化だ」
と、服従の象徴ではないとの
認識を示した。照屋守之氏(自民)への答弁。


首里城には守礼門があるが、これは中国への服従の象徴である。首里城には中国への服従の象徴が山ほどある。これは明白な事実である。

王府が中国へ土下座していたのは事実である。土下座は王府の文化である。しかしだからと言って、他の人々まで土下座すべきだろうか?守礼門も龍柱も首里城にしかない。今帰仁城や中城城にはそんなものはない。

ましてや現代の我々が第二、第三の守礼門や龍柱を建てるいわれはないのである。

翁長は、中国への服従の象徴という言葉と、沖縄独自の文化を、対比的に用いている。これは完全な誤りである。中国に土下座するのは、明白に、王府の文化である。王府が沖縄ではない、というなら話は別だが。

しかし同時に、王府が中国に土下座していたかといって、他の御先祖様まで土下座していたと考える必要はないのである。組踊は沖縄の文化だという人もいる。しかしあんなの見ていたのは王府の人間だけである。組踊は沖縄の文化かも知れないが、だからと言って県民全体に共有されているわけではない。歴史的に言って、組踊の存在すら知らない人が大半で、文化的wwマスゴミがいかに宣伝しても誰も見にいかない。つーか今時若いのは新聞なんてよまない。青年会のヤンキーが勝手に自分の金でやってくれるエイサーと、税金で保護しなければならない組踊とでは、文化は文化でも普遍性が全く違うのである。

龍柱について私が重ねて確認せねばならないのは、これは中国への服従の象徴だということ、首里城以外の他の城にはないということ、一部の特殊な御先祖様が中国に土下座していたからといって、現代の我々までこれを墨守する必要は全くないこと、以上の点である。

近年の腐れ公僕は、税金が誰のモノか忘れがちのようである。沖縄県の税金は県民の物ある。翁長の私物ではない。白ソンヨプ将軍の自伝には、アメリカの将軍に教えられたとして、次の言葉がある。つまり、皆が納得する方針がいい方針だ、というものである。

これがシーサーだったら、県内業者に発注できるし、県のシンボルとしても、たいして文句も出なかっただろう。あらゆる点から言って、龍柱建設をゴリ押しする翁長の所業は甚だ不審である。

税金については高良倉吉にもはっきり言っておきたいのだが、コイツはどう考えても民間では通用しそうもなく、税金がなければトイレットペーパーも買えない糞ナマポのくせに、やたら偉そうである。コイツは、県民の事を知性がないなどとしばしばけなしている。なあ倉吉よ、お前は知性がないから文学部にいるんだよ?知性のある奴が文学部とか行くわけねーだろバーカwww

高良倉吉前副知事
高良倉吉


上里隆史
上里隆史



キラキラ ★31日 10時 守礼門下に集合 冊封儀式粉砕デモにご参加よろしくお願いします。
http://stgeoge.ti-da.net/e8038041.html  

Posted by 龍柱阻止 at 00:46Comments(4)沖縄の歴史検証

2015年10月28日

シーサーのルーツはチャイナ???何でも「中国から」を疑う


多くの沖縄県民は、当然の事のようにシーサーのルーツをチャイナにしている。
しかし、
世界三大仏教遺跡のひとつが『ボロブドゥール寺院遺跡群』
その入口にある『シンハー』(サンクスリット語でライオン)が、
沖縄の『シーサー』ぽいんですけど?
シンハー ボロブドゥール寺院 ジャワ 


シャイレーンドラ朝※(1)が生み出したジャワ芸術の最高峰である『ボロブドゥール寺院遺跡群』にです!
ボロブドゥール寺院遺跡群石積


ボロブドゥール寺院遺跡群お釈迦様


ボロブドゥール寺院遺跡群お釈迦様が卒塔婆越しに


【世界遺産基本データ】
登録名称:ボロブドゥール寺院遺跡群
Borobudur Temple Compounds
国名:インドネシア共和国
登録年と登録基準:1991年、文化遺産(i)(ii)(vi)
ボロブドゥール寺院遺跡群夕陽



沖縄では陸のシルクロードを経由してチャイナから沖縄に何でも来たような話になっている。
でも、海のシルクロードの線でジャワという考えを抹殺してはならないと思います。
その方が歴史が断然古い事になるしね。

又、日本から日本の真言宗経由でサンクスリット名シーサーが伝わったという考えも有って良いと思いますね。
真言宗の開祖の空海は遣唐使(806年帰国)で唐に出向き、サンスクリット語を日本に初めて伝えた人と言われている。
1368年に、若狭の真言宗の『護国寺』建立、その際に波上宮を整備したという。
沖縄の最古の寺院 創建以来、琉球国王の祈願寺
シルクロード陸と海ジャワも


琉球対外貿易概略図



581年 - 618年 チャイナの隋王朝

600年(推古8年)~618年 日本は遣隋使を派遣

619年 チャイナの唐王朝始まる。

752年?-832年? ジャワのシャイレーンドラ朝

753年 鑑真和尚は遣唐使船で渡日の途中で「阿児奈波(あこなわ)」に漂着したと、
    淡海三船著の「唐大和上東征伝」にある。文献上の沖縄の初見といわれる。

804〜806年 真言宗の開祖の空海が遣唐使 サンスクリット語を日本に伝える。

894年 菅原道真の建議により遣唐使停止

1368年に、若狭の真言宗の『護国寺』建立、その際に波上宮を整備

1368年 チャイナの明王朝が成立

1470年ごろ 首里城の瑞専門に石獅子が対で設置したと記録
首里城瑞泉門のシーサー


首里城欄干のシーサー


1689年 東風平(こちんだ)の冨盛村でたびたび火災があり、
    こまった冨盛村の人たちは、風水師に見せたところ、
   「富盛村を見下ろす八重瀬岳がフィーザン(火山)だ」というので、
   その山にむけて獅子を設置したら火災はおこらなくなったと 記録
東風平の村獅子



『ボロブドゥール寺院遺跡群』その入口にある『シンハー』
シンハー ボロブドゥール寺院 ジャワ 




ちなみに紫禁城の獅子はキモい、沖縄のシーサーとかなり違う。
紫禁城の獅子





※(1)シャイレーンドラ朝:(752年?-832年?)は、8世紀半ばから9世紀前半にかけてジャワ島中部に建てられた王朝。シャイレーンドラはサンスクリット語で「山からの王」「山の王家」[1]という意味。王家は、サンスクリット語と北インド系の文字を使用し、大乗仏教(インドの影響)を信奉した。



首里の「シュリ」は
シュリーヴィジャヤ地図


シュリーヴィジャヤ王国から頂いたのでは?

【シュリーヴィジャヤ王国】Sriwijaya/Srivijaya 
 "シュリーヴィジャヤ"はサンスクリット語であり、"シュリ(Sri)"は"聖なる、光輝の"の意味(英語の"shine"に相当)で、"ヴィジャヤ(vijaya)"は"勝利"を表す(英語の"victory"に相当)。
北宋時代の文豪・欧陽脩が中心となって著された歴史書『新唐書(しんとうじょ)』は"室利佛逝(しつりぶっせい。室利仏逝)"と漢字で書いている。
沖縄の人はあえて「首里」にし「室利」を選択せず。中国語に「首里」は無い。

シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島のパレンバン、西はマレー半島西岸のクダないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。この海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国やインドともさかんに通商をおこなった。

775年のサンスクリット語の碑文には、ヴィシュヌという名の「シャイレーンドラ王家のシュリーヴィジャヤ王」が3寺院を建立したと記されていることから、この時期、シュリーヴィジャヤ王国がシャイレーンドラ王家に支配されるようになったということがうかがわれる。

また、741年の最後の遣使ののち、インドネシアの地域から中国へ遣使をしたのはジャワ島の「訶陵」という勢力であった。この「訶陵」からの中国への遣使は670年にいったん中断し、768年に再開されているところから、シュリーヴィジャヤ王国は8世紀後半より訶陵(シャイレーンドラ朝)の影響下にあったと考えられ、この状態は9世紀後半までつづく。碑文の存在は、ジャワの勢力がスマトラのみならずマレー半島にもおよんでいることを物語る。その後、都は北西方のジャンビにうつり、中国史料では「三仏斉」と称される勢力がマラッカ海峡をのぞむ地域一帯に出現し、10世紀初頭以降、中国へ使節を派遣している。
こののち、ジャワ島のクディリ朝のダルマヴァンシャ王は、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止しようと、992年からマレー、スマトラ各地に侵攻した。しかし、1016年に地方領主の1人であったウラウリ王の反乱によって、ダルマヴァンシャが殺害された。その背後に、シュリーヴィジャヤの力が働いていたのではという説がある。
1025年に南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けて衰退した。スマトラ島はジャワのシンガサリ朝、続いてマジャパヒト王国からの征服にさらされた。同時期、アラブやインドの商人との接触を通じて広まったイスラム教徒がスマトラ島の地方にアチェ王国を建国した。13世紀の後半までに、サムドラ王国の君主はイスラム教徒に改宗した。同じ頃シュリーヴィジャヤ王国はクメール王朝の、後にスコータイ王朝の属国になった。
1414年までにシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラ(英語版)がイスラム教に改宗し、マレー半島のマラッカでスルタン制が始まった。マラッカ王国は1511年8月24日にポルトガルによって征服された。
シュリーヴィジャヤ・アンコールワット・ポロブドゥール地図



インドネシアの歴史
History of Indonesia.png
初期王国
シュリーヴィジャヤ王国 (3世紀–14世紀)
クタイ王国 (4世紀末-5世紀初め頃)
タルマヌガラ王国 (358-723)
シャイレーンドラ朝 (8世紀–9世紀)
スンダ王国(英語版) (669-1579)
古マタラム王国 (752–1045)
クディリ王国 (1045–1221)
シンガサリ王国 (1222–1292)
サムドラ・パサイ王国 (1267-1521)
マジャパヒト王国 (1293–1500)
イスラーム王朝の勃興
マラッカ王国 (1400–1511)
ドゥマク王国 (1475–1518)
アチェ王国 (1496–1903)
バンテン王国 (1526–1813)
パジャン王国(英語版) (1568年-1586)
マタラム王国 (1500年代-1700年代)
ヨーロッパ植民地主義
オランダ東インド会社 (1602–1800)
オランダ領東インド (1800–1942)
インドネシアの形成
日本占領下 (1942–1945)
独立戦争 (1945–1950)
インドネシアの独立
9月30日事件 (1965–1966)  

Posted by 龍柱阻止 at 16:02Comments(0)沖縄の歴史検証