沖縄県翁長知事の驚きの変節の記録

龍柱阻止

2015年12月31日 13:12



ブログ『tomocci掲示板・東京新報』http://9321.teacup.com/sinpo/bbs/1617の<沖縄翁長知事の変節>より抜粋:

自衛隊の支援活動をする沖縄県防衛協会の青年部会長を務めるなど、自民党の中でも特に保守色が強い存在でした。

九三年に糸満市で開かれた全国植樹祭に出席するため天皇皇后両陛下が訪沖された際には、
訪問反対の運動が盛り上がる中、翁長氏は日の丸の旗を振って、万歳をして歓迎してみせたのです」(自民党県議)




 翁長氏が県議になる二年前の九〇年には、革新の大田昌秀氏が知事となっていた。

大田氏は、県内全ての米軍基地返還を求める「基地返還アクションプログラム」を発表するなど、政府と激しく対立した。

翁長氏は大田知事への追及で一躍名を馳せた。

「彼は他人の揚げ足を取るのがうまく、早口でまくしたてる。
気が短い大田知事は顔を真っ赤にして怒るのですが、
そんなのお構いなし。『そんなに言うのならあんたがやってみろ』と大田知事が言い出し、
議場が大爆笑となったこともありました」(自民党元県議)


 当時、翁長氏は本会議で大田氏をこう追及している。


反基地の契機はオスプレイ

〈(大田知事が)保守、革新を超越した基地反対闘争の結集を訴えるのは県民向けの受けのいいポーズであり、

マスターベーションにすぎないと同時に、県民の結束をみずから放棄していると言われても仕方がありません〉(九四年三月の県議会)



 九七年に自民党沖縄県連の幹事長となった翁長氏は、九八年の知事選で経済界から稲嶺恵一氏を担ぎ出し、

「十五年の使用期限、軍民共用」との条件付きながら、名護市辺野古への移設容認を公約として当選させた立役者でもある。


 九九年の県議会本会議の議事録には、この公約を支持する次の発言がある。
(稲嶺)知事がキャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域に場所を候補地として選定いたしまして、
昨年の知事の公約を実行型県政としてしっかりと踏まえて一つ一つ前に進んでいることを高く評価をするものであります


 この年の県議会で野党の反対を押し切り


普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」を可決させた中心メンバーも翁長氏だ。



 議会で提案者を代表して提案理由を説明した翁長氏は、
基地問題をめぐる大田前知事の姿勢を「オール・オア・ナッシングの姿勢」と批判し、
政府との信頼関係を損なったと非難した。

当時、自民党県議で、後に衆議院議員となる安次富(あしとみ)修氏はこう振り返る。


「決議案に対して共産党から三百くらい質問が出され、
ジュゴンや珊瑚のことも言われましたが、朝までかかって可決した。
同じ年に名護市議会が普天間の移設を容認する決議を可決した時も、幹事長として総指揮したのが翁長氏。


彼は一貫して、辺野古移設を推進する動きの中にいたのです」


 〇〇年には那覇市長選挙で当選。かつて同じ選挙で敗れた父の雪辱を果たした。
市長就任後は、那覇市役所庁舎での初めての日の丸掲揚や自衛官募集業務の受託など、
長く続いた革新市政時代を覆す動きも見せたが、変わり身の早さを物語るエピソードもある。


『市長専用の公用車を廃止し、自転車で通勤する』との公約を掲げて当選し、
しばらくは自転車通勤をして新聞でも好意的に報じられた。
ですが、ほとぼりが冷めると『自転車では夜の会合に行けない』と通勤にハイヤーを使うようになり、
さらに『ハイヤーでは秘密の話ができない』と、公用車を復活させた。
しれっと言うことを変える人なんです」(那覇市議)



 妻の樹子(みきこ)氏とのあいだに二男二女。
長男は選挙で戦った仲井真氏が会長を務めた沖縄電力に勤務し、
次男や長女も県内の企業に勤務。
次女は関東地方の大学に通う。翁長氏の義理の兄にあたる島憲正氏はこう語る。


「彼は学生の頃はトランペットをやっていて、歌もすごくうまく、『嵐を呼ぶ男』など石原裕次郎ならなんでも歌います。
野球が好きで巨人を一生懸命応援している。市長時代に建設した野球場に巨人のキャンプを誘致したぐらいですから」



 なお、四月五日に菅官房長官と会談した際に批判した「粛々」という言葉は、
翁長氏もよく使う。




県議会や那覇市議会の議事録を調べてみると、短い答弁の中で四回も「粛々」という言葉を使ったこともあった。
一〇年二月の市議会本会議では、政治哲学を問われて、
「市長としてできる限りのことを粛々と果たしていきたいと考えております」と答弁している。

関連記事